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悲劇の謎(父)

<乾いた愛でも>~コウ流モーツァルト感 (2003年記事の再掲載)

さて、前回「人間性との出会い(1)」を書いたので今回は「人間性との出会い(2)」のはずですが、これは最後に書くことにしました。
なぜなら、「人間性との出会い(2)」は私のモーツァルト感の結論になるからです。
なぜそう感じるのか、そのわけを示したいのです。
そしてタイトルにもある「乾いた愛でも」の意味を書きたいのです。

それには三つあります。

悲劇の謎(父)
悲劇の謎(母)
悲劇の謎(死)

です。

ということで、今日は悲劇の謎(父)を書きます。


父、レーオポルト・モーツァルト
オーストリァのザルツブルグ大司教に仕える宮廷音楽家でした。
作曲能力もあって宮廷作曲家の称号も受けており、何より彼の<ヴァイオリン奏法>はエマニエル・バッハの<クラヴィア奏法>と並ぶくらい貴重な文献と言われています。

でも楽団の副学長止まりで空位が出来ても彼は楽長になれませんでした。
彼はすぐれた教養の持ち主で勤勉で几帳面。とくに敬虔なカトリック信者として生涯を貫いたとされています。

この定説に少し疑問があります。
そんなに真面目なのに何故空位の楽長になれなかったのでしょうか?
普通なら副学長が空位を埋めます。

さて肝心の父親としてどうだったのでしょうか。次の説があります。

◎天才を天才ならしめた理想的な父親説
◎名誉欲と虚栄心に富み、偏狭で疑い深い男だった。

さてどちらなんでしょう?
私は後者を取りたいです。でも我が敬愛する著者海老沢敏氏は前者を取っています。

コウ流解明

父は幼いモーツァルトを5才から10年間もヨーロッパ各地に一緒に旅をしています。
この年齢は第一伸張期にあたり肉体、精神ともとても大切なときです。
当時の交通機関からしてきわめて有害な旅であることは明白です。

健康面の発育不良、精神面の発育不良の原因はこの旅でした。
これは海老沢氏も認めております。
で、旅のメインイベントは見せ物の猿回しのようなものだったことが知られています。

それは、
モーツァルトにクラヴィアに布をかぶせて弾かせるのです。
右手人差し指一本でも正確に弾いたようです。
この事は当時の各地の新聞などに見せ物イベントとして記録されているのです。
”どうだ! わしの息子は!”こう言いたかったのでしょうか。
本当に教養があってモーツァルトの成長のためを考えていた父親でしょうか?
私が父親ならとても考えられません!

故郷ザルツブルグには音楽史上にも残る作曲家、音楽家はたくさんいたのです。
あのエーゼフ・ハイドンの弟、ミハエル・ハイドンも!
もう少し成長するまで彼らに任せて十分すぎるはずです。

父レーオポルトは自分の上を行く彼らを我が子で見返してやりたかったのでは・・・
そして自分だけの手で!
私はそう思えてなりません。

天才を天才ならしめた事も事実です。
でも天才だからこそ、そこまでしない方が良かったのです。

モーツァルトが本当に書きたかった音楽、父はわかっていたでしょうか。
父レーオポルトの作る曲は「標題音楽(描写的)」が中心でしたがモーツァルトがそれを真似した曲はありません。
そして受けだけを狙ったような「お気に入り」になるための曲が多すぎるのも父のせいかもしれません。
売れてこその作曲家かもしれませんが、健康で彼の好きなようにさせてやれば100年先の音楽まで書いた気がするのです。

コウの「たわごと」に過ぎないでしょうか・・・

つづく


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